2010年11月2日火曜日

科学的根拠はありません.

※下記,単なる思いつきと思いつきの比喩表現です.科学的根拠はありません.

もう11月ですね.ここ2,3ヶ月は,ずっと,いろいろと終わらなくて泣きたい気分です.もちろん,終わらせた事も多々ありますが,それに対しての充実感がないというか...

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科学リテラシーという言葉がありますあるそうです.自分のいる分野だと神経神話というが流行っているらしく,なおさらリテラシーが必要だとか.

リテラシーは主には情報の受信者側についての問題として語られているんですが,神経神話に関しては,情報の発信者に対しての批判も大きいようです.いろんなところで神経神話に警鈴を鳴らし続けている方々もいます.

警鈴をならす事自体は,良いと思うんです.ただ,鈴の音が後ろ向きというか,他人をよせつけないような排他的な音色に聞こえてしまうのは僕だけかな!? 個人的には,生理学を中心とする今の日本の神経科学業界は,かなり閉鎖的だなぁと感じているので,その印象と重なってしまいます.

やるならば,「まちがったことを言っちゃいけない」,「正確に言え」と言うのではなく,「本当はこうですよ」「こう表現するのが正確ですよ」と後からいちいち訂正してあげるのが,良い方法だと思うんです.やるならば.

「科学的根拠を宣伝文句にする商品には文献情報をつける」といった提案はちょっと勘弁して欲しいなぁ.あーしなさい,こーしなさい,と言われる社会はかなりイヤだ.殺生するな(主に人間に対して)とか最低限の「してはいけない事」をみんなできめたら,あとは勝手にしたら良いと思うんです.

あと,情報を発信する側の「倫理」や受信する側の「教養」の問題で,手続き(制度)に還元して解決するのはまちがいじゃないかな.倫理や教養を育てるのは,やはり基礎教育の問題で,長い時間をかけて解決する問題ではないでしょうか.

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Webが,正確な情報が1つ増えるために万のクズ情報が飛び交う場だとしても,僕はWebを歓迎します.

というか,そもそも,正確な情報が1つが生まれるためには,万のクズ情報が必要なんだと思うんです.新しい情報ほど,まわりにクズ情報がびっしり張り付いているもんだと思うんです.そのうち,みんなでクズ情報を洗い流して,誰でもその正確な情報にたどり着けるようになる,というのが,情報が流通する構造ではないでしょうか.発信する事自体が目的である場合も多々あるし,その場合は内容なんてどうでもいいわけです.多かれ少なかれ,みんなそういう内容の無いコミュニケーションを必要としているでしょ.僕の雑談のほとんどは3分記憶する価値もないクズ情報.

基本的には,現象を理解するにはたいていは背景となる知識が必要で,ジャーゴン(術語)を使わないなら,それらを全部説明しなくちゃいけない.発信する側にそれを求めるのは,無理でしょう.専門家は黙るしかなくなっちゃう.

それよりは,とにかく何かを発信して,何かを受信する事が重要です.そのうち,専門家と専門家でない人達の間に新しい言語を作られるでしょう.それがコミュニケーションだと思います.一般に使われる新しい言語が,専門家コミュニティと違うからって,専門家はひがんじゃいけないw.コミュニティが違うんですから.フランス語より英語の方が正しい,とかはないのと同じだと思います.

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僕の個人的な体験では,初対面の人でも,自分が脳とか認知科学を研究していると伝えると,相手から脳の話題を切り出してくれることが頻繁にあります.僕はその人の知っている間違いを起点にして,(たぶん)正解に誘導してあげられる.話しが盛り上がる.「脳って何? 難しい事やってるんですね...」で終わってしまって何にも起点がないと,それを探すのにとても時間がかかりますよね.そういう点では,ちまたで活躍される脳科学者の恩恵を受けてます.

ということで,TVでの脳科学者のお話しであろうが,学会での神経科学者の講演であろうが,居酒屋での酔っぱらいの与太話であろうが,脳の話しをしてくれる事に当事者として歓迎します.

PS.
こういう問題に興味のある方は,この本,必読では.ある生物に関する科学的な報告書.
「鼻行類—新しく発見された哺乳類の構造と生活」Harard Stumpke 著, 日高 敏隆, 羽田 節子 訳. 動物学者でケンイある日高さんの訳本です.

追記: 2010 Dec. 7
弁護士の方(この人は科学と法律の関係の研究もしているらしい)と話したら,法律に関わる人は強かだと.裁判で勝つためなら,科学的ではないと知っていても,巷で科学らしき事と認識されていたら,それはどん欲に利用すると.うーむ,どうなんでしょう.この方は,これ以上の意見を言われたわけではありませんが,悪用される事を制限するために情報発信の手続きを面倒にするのはちがうかなぁと.やはり悪用されている事を防げばいいわけで.


2010年9月24日金曜日

Can Not Even Criticize


こないだ機能を物質に還元する方法は流行らないでほしいと書いたんですけど,先週の某有名雑誌に,領野間の結合性(connectivity)を使った指標で,年齢を予測するという論文がありました.結合性を指標にするなら,皮質の構造よりは機能との因果関係に迫れそうじゃない!? と肯定的な気分で読み始めたんですけど,結果の解釈が...

主の結果はSVR(Support Vector Regression, Support Vector machine for Regression)を使って,回帰問題を解いていて,さらには複数のモデルからAICを使ってモデル選択までしていて,ここまで行った手続きは無難そうに思える論文でした.

ただ,そのあとに,SVRの重み(を使った指標!?)を視覚化した図があって(この論文で目が惹かれるのはコチラの図だったりする),この論文の場合,重みを球の大きさに対応させて,脳の図の上に重ね書きされてる.あたかも,球の大きな領野が重要であるかのように...

(?△?)

確かに,SVMでもSVRでも識別境界や回帰関数を決めるのにサポートベクター(重みのかかっているROI)は効いてきます.その点では,重要なROIですけれど.

ただ,そのROIの脳活動は,情報を表現する特徴を有しているかという点では,重要ではないのでは ? 逆に重みがゼロになっているROIの方が,情報を表現していたりするのではなかろうか.診断の時に,大きな球で表されている領野を見て判断すればいいと言っているようでもあり,まちがっていないか?

あと非線形なカーネルなんか使ってたら,射影された判別のための特徴空間がどんな空間だかは,実際的には,全く解釈できないだろうと思う.

一時期流行ったSVMを使ったfMRIのDecoding研究でも,「識別に有用だったボクセルの値に情報表現があることを言えない」ということはみんなが気がついていて,巧妙に情報表現とは論点をずらしていました(それでも,情報表現について何かしら言えるんじゃないかというのが,期待でした.その期待はまだ消えていないと思いますが).今回は,「識別に有用だったボクセルの値に情報表現がある」と言っているのですよね.まずいんじゃないかな.

とはいえ,本文にもSupplementにも,図が何を計算した結果なのか明示的に書いてないので,何をしたのかよくわかりません.ということで,断定的に間違いとも言えないので,論文名は出さない.

神経科学の論文は,解析を再現できない論文が多い.数式も併せて説明を書いておいてほしい.Supplementでいいから.ただでさえ怪しいfMRI研究が,ますます相手にされなくなってしまうのでは.

いつぞや,機械学習な人たちに自分の先行研究として,ある論文を紹介したときに,とある解析の説明に数式がなくて,「それは書いてなかったんですよ」と言ったら,「それは書いてあるだろう.そんな論文が査読に来たら,リジェクトとするぞ」と言われて,おれがちゃんと読んでないみたいな雰囲気になっちゃって,......orz

Not Even Wrong, by Pauli.

2010年9月21日火曜日

解析方法とか


「[統計]AICとDICに関する非常にアヤしい自作メモ(その4)」Take a Risk: 林岳彦の研究メモ に(この記事の主となる話題ではないんですけど),
ただ私は一介の統計ユーザーに過ぎないので、原理的なことはさておき実務に耐えうれば何でもよいというのが正直なところであります*10。
(中略)
*10:ただ「実務に耐えうるかどうか(の範囲の限定)」が原理的な部分にも関わる問題だったりするのが厄介なところであります
と書かれていたのに対して,
「実務の人が原理を考えずして誰が考えるのでしょうか?  統計の理論家というのは数学的に細かいことが好きで、 どうも原理を考えるのに向いていないように思います. あと、しばしば統計手法の問題は「生態学とはどういう科学か」 「科学であるというのはどういうことか」というところまで遡るので、 そうなると応用数学のレベルでは答えようが無いかも.」
というコメントがあり,慧眼だなと思った次第.

海外の会議に出てポスター発表などを聞いていると,ヨーロッパでは研究の分業化は進んでいるようで,学生だかポスドクらしきヒトのポスターでは,「解析をしたのは他の人だから,俺,知らんもんね♪」と悪びれずに言うヒトが結構いて(逆パターン「あたし,計測とか実験の事は知らんもんね♭」というのもある),カルチャーショックをうける(このエピソードは前にも書いたような,まぁいいっか).

現象を表現するモデル(生成モデル)として数理を使わなくても,定量的な実験では何らかの数理的な解析(判別モデル)が必要なわけで,どんな解析方法を使うかは研究者の現象に対する認識(生成モデル)を反映するものですよね.


【論文】交わる知性,ベイズ最適で.


Bahrami et al. Optimally interacting minds. Science (2010) vol. 329 (5995) pp. 1081-5

論理と実験とデータに?? がつくので,ちゃんとは紹介しないですけど,テーマとしてはおもしろかったので,簡単に紹介.

物事は複数人で相談して決めた方が良い結果になる場合があるのか? を調べた研究.

で,結果は,

2人で相談した結果というのが,個々人の判断をベイズ的に統合した結果になるという.場合によっては,相談して決めた方が良い結果になる.

ヒトにとって検出が簡単ではない視覚刺激をもちいた2択課題で,どちらが正解かを決断してもらうんだけど,個別に決断してもらうと,当然,正解率の高いヒトと低いヒトが1人づつ出てくるわけです(同じ正解率という事もあります).で,この論文のモデルが正しければ,2人で相談して決めた結果が,正解率が高いヒトよりも高くなる場合がある.おおざっぱに言って,能力の低いヒトが高いヒトの半分以上であれば,相談して決断する価値がある.2人の能力に差がありすぎると,相談しても良い結果にはならないけど.

組織で,能力の低いヒトが高いヒトの半分くらいのところになるように階層を区切って,意志決定のグループをつくったら良いのかしらとか思ったり.

ベイズでヒトの行動を説明した論文としては,Körding & Wolpert 2004, Nature の論文が,論理もデータも完璧という感じなんで※1※2,今回の論文はどうにも見劣りします.ただ,素朴な疑問になんとか取り組んだってのは,好きでした.


※1:
Körding & Wolpert 2004は,全てが完ぺきという印象の論文なんですけど,よく調べて実験条件の図などをみると,文章で読むより随分と特殊な運動をさせている印象.すごい狭い範囲でちょこちょこと腕を動かす課題なんで,そこにちょっとがっかりしますけど.

※2:
正確には,タイトルにBayesian integrationとあるものの「ベイズ的に情報が統合されている」とは言えなくて,単に「情報が統合されている」と言っている論文です(他にカルマンフィルターで説明した論文があって,併せて考えればモデル選択していなくてもベイズかなとは思わせるのですが).今回紹介したBahrami et.al.,2010の方は,他3つのモデルの比較をしていて(この比較の仕方がイマイチなんだよなぁ),ベイズ的に統合されていると主張しているので,Körding & Wolpert 2004と比較して難しい事を主張しようとはしている.まぁ,今回の場合,情報が統合されている(相談した方が良い)というだけでは新規性ないですからね.

2010年9月19日日曜日

いまさら機能を物質に還元して説明する方法は流行らないでくれと願う.


今週のサイエンスに掲載されている論文とか(いや,もう先週ということになるけど).

最近,脳領野の厚みだの大きさだの脳の構造と特定の機能が相関している事を調べる研究が多い.頼むから,そんな研究が多勢にならんでくれと願うばかり.

機能は物質(ハードウェア)に依存するから,もちろん機能を調べるとっかかりとしては重要.でも,とっかかりとしての役割だけで十分じゃない!? fMRIでは領野での機能局在を調べる研究がだいぶ収束しつつあるように思えるし,「近代骨相学」と呼ぶ人までいるご時世に,またそこに戻りますか...という感じorz

機能局在をやるにしても,構造を根拠に説明するんじゃなくて,もうちっとがんばって,せめて脳活動を機能局在の根拠にしようよ,とか思うわけです.DCM(Dynamic Causal Modeling)やGranger causalityとかネットワークを解析する方法も整備されつつあるし,そっちでもうちょいがんばろうよ,とか思ってしまうわけです.

Diffusion Tensor Imagingの形態学的な情報を元に,領野間のネットワークを解析するとか,形態学は機能を知るためにいろいろと有用だと思うんですけど,機能を知るのに領野の厚みだの大きさを調べる意義って何かわからない(臨床とかでは簡単で適当な指標になるんでしょうけどね,基礎研究の人がそれやって意味あるのか!?).

機能までの因果関係が遠すぎると,なんというか,「風が吹けば桶屋が儲かる」的相関にならないかなぁ.

こういった構造の解析,Voxel based morphometry (VBM)と言われて,お手軽にできるようになりましたし,流行りそうな気がするのが,なんともイヤ.やれることなくなった人たちがこちらに流れていきそうな気がしてならないのが,イヤ.批判するなら論文読まなくちゃとか思って,まじめに読んで結局がっかりするのもイヤ.

2010年9月12日日曜日

臨床,意志決定,わからない


先週末は,神経心理学会が行われて,会場の手伝いをやらされたこともあって,まじめに講演を聴いていた.発表者のほとんどは医者やリハビリ関係の人.自分がこの分野の当事者でないと思えば,いろんな症例が紹介されていて,単純におもしろかった.

診断方法の話しも興味深かった.労災や保険のために診断する時には,病状に応じて等級判定をするのだけど,精神疾患だとなかなか証拠を集めづらいと.行動的には問題あるけど,脳には損傷がなかったり.病気だと偽る人もいるし,故意でなくても,(補償金とかを)もらえるものはもらいたいという心理が無意識に働いて,症状として出る事もあるらしい.そんな中で,どのように診断するか.

限られた時間と情報の中で意志決定する方法がおもしろかった.こういう臨床での意志決定に比較したら,基礎科学なんて意志決定しないと言っていいですからね.確定的な証拠が見つかるまで,「わからない」という態度でいられる.

臨床だと「わからない」ではすまないですよね.それは,手続きを進めなければいけないというのもあるし,多くの人にとっては「わからない」という状態は,とても不安で早く脱したい状態なんだと思います.

僕にとって,「わからない」というのは上に凸の関数のてっぺん(不安定な平衡点)でバランスとっている感じ.不安定とはいえ平衡点なんで,バランスの取り方さえ覚えれば,そんなに居心地もわるくないという感じ.多くの人がテキトーな理由をみつけて安定な平衡点に行きたがるところを,証拠がでてくるまで予断なくバランスできるのも科学者の資質かなと思ったり.

2010年9月8日水曜日

参加者の資格


組織に属するならアドミッション・ポリシー(組織の理念とか,構成員に要請される資格とか役割とか)を守らなぁ.できないなら退場しなぁ,あかんやろ...大学には,金を払って組織に属している学生という立場の人が多くいて,時にして,お客様扱いだったり,お客様態度だったりするけど...

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一方で,

組織を運営する時の原則(アドミッション・ポリシー)があったとしても,個別の事象は全て例外として個別に対応するのも良いと思ってる.特に小さい組織なら,全てを例外として扱っても制御できたりするから.

ただ,全てが例外ならば原則はいらないかと言えば,そうではないでしょ!? 例外として扱っても制御できなければ,最終的には原則に照らし合わせて,立場にある人が原則を守れない人に対して粛々と退場を促さないとあかん.

退場を促す立場がみんなに与えられているのか,特定の人だけなのか.たいていの組織は特定の人にだけ与えられているから,特定の人がやらないかんのでしょうね.きちんと意志決定しないと,...... ...

組織が死んじゃう.

原則のない,もしくは原則を遂行できない方が多いなぁ.

2010年9月4日土曜日

予測か推定か.


久々に研究に関連した話しを.

予測|Prediction と 推定|Estimation,つい最近まで僕の中で言葉の使い方は随分曖昧でした.どう使い分けますか?

【予測】
将来の出来事や状態を前もっておしはかること。また、その内容。科学的根拠が重んじられる。
「 大辞林」
将来どうなるかを得られた情報などに基づいておしはかること。また、そのようにして得たもの。「予想」は将来を推測する意で広く使い、「予測」は具体的なデータなどに基づく意で使うことが多い。
「明鏡国語辞典」

【推定】
①周囲の状況や情報に基づいて、おしはかって決めること。推測決定すること。また、そのようにして得たもの。 ②法律で、明瞭でない法律関係または事実関係について、否定する反証が成り立つまで、それを正当なものとして扱うこと。
「 明鏡国語辞典」
(1)はっきりとはわからないことをいろいろな根拠をもとに、あれこれ考えて決めること。 (2)〔法〕 明瞭でない法律関係・事実関係について一応の判断を下すこと。 (3)〔数〕 統計で、ある母集団から取り出された標本をもとにその母集団の平均・分散などを算出すること。 (4)文法で、何らかの根拠をもとにあれこれ考えて断定する意を表す言い方。口語では助動詞「らしい」、文語では助動詞「らし」を付けて言い表す。
「大辞林」

「予測」に関しては,未来の事に対して使うという感じは持っていましたが,一方で,「推定」は,静的な事に対して使うというような感じは持っていました.例えば,「状態」に対して使うとか.ただ,推定と使うところを予測としても良いような気はしていた.

脳の情報表現と行動の2つの「予測(推定)」が登場する場合に,どちらか片方だけを使うと文章を読んでいてわかりにくくて,使い分けたかった.それで,自分の研究を説明する時には,感覚的に,行動については「予測」,脳活動で表現されている事に対しては「推定」と,使っていました.そんな話しをしたら,観察可能な事に対して「予測」と使い,観察不可な事に対しては「推定」と使うという議論をしたことがあったと教えてもらい,あぁー,なるほどと.僕にとっても,腑に落ちる説明でした(僕の感覚的な使い方も,偶然,それと同様の使い方にはなっていたのですが).

この説明で使い分けると,ヒトや動物の行動については「予測」,その時の脳活動の情報表現については「推定」となる.ただ,脳活動とは言っても,神経活動の発火率やBOLD信号は,観察可能なので,「予測」を使うのが良いのでしょう.fMRIのデコーディング研究で言うと,Tong et al., 2008 はBOLD信号を「予測」することが研究の主であったし,Miyawaki, Uchida et al., 2008 は情報表現を「推定」することが研究の主だったという違いがありますね.

僕は,脳活動の「予測」にはほとんど興味がなくて,脳の情報表現の「推定」に興味がある. 特に,認知行動レベルの情報表現について興味がある.ちなみに,脳の情報表現の「推定」に関しては,どこまでいっても「推定」しかできないというのが,認知行動レベルにおける脳科学の難しさでもあるんでしょう.「推定」だけだと,その性能を評価できませんから.書いた勢いで,ちょっと皮肉を言えば,「脳活動を計測すれば,それまでの心理学では分からなかった事がわかりそう」と思っている無垢な方々などには,その辺の誤解があるのかな,と思ったり,思わなかったり.

2010年7月9日金曜日

十七条





ブラジルとオランダの試合は,態度がせわしなくてうまいとは思えなかったけれど,
ジャッジの基準は一定だったし,公平に見えました.
ちゃんと適切な場面でレッドカードも出していましたしね.
レッドカードを出すのはヒジョーーに勇気がいります.

審判も予選グループの試合で笛を吹き,
評価の高かった人だけが決勝トーナメントの試合を吹き,
...とトーナメントを勝ち上がっていくんです.

決勝の舞台の一員に残れるなんてすごいですよね.

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サッカーは,審判の仕事もおもしろいです.

試合をおもしろくするためには,
選手ががんばらなければならないので,
審判にできることはありません.
ただ,審判がゲームをつまらないモノにすることはできます.

ワールドカップやJリーグでは,事前に選手の情報も入れているでしょうが,
僕が笛を吹いたレベルでは,そこまではしませんでした.

試合を通して,選手とコミュニケーションを図りながら,
ジャッジしていく.
コミュニケーションをしながらその試合でのルールの基準を作ったり,
こちらの基準に選手を誘導したりする感覚が
おもしろかったです.

毅然とした態度でジャッジをする必要があるけど,
それが過度になって威圧的な態度だと失敗する.
サッカー界では,中高校生ですら,
威圧的な態度に屈するような選手はいないから,大抵は反発される(苦笑)
そのへんのさじ加減がおもしろかったりする.

また,毅然とした態度っていうのをどのように表現するか.
例えば,警告(イエローカード)を出すにしても,
選手に走り寄って,ハァハァ息を切らしながら出しちゃ,不格好.
選手を自分の方に呼んで,
選手にもベンチにも観客にもわかるように,
整然とカードを提示する.

こう書いてしまうと,マニュアル的だけど,
仕草やふるまいが相手の心理に影響を与えることを
意識しておかないと,マネジメントは難しいですよね.
日常生活に比較したら,
比較にならないほど興奮しきった自分と選手たち,ベンチ,観客


いるわけですから,

制御するのはなかなか頭を使う作業です.

他に,審判の仕事と言えば,

とにかく走る.選手並みに.
選手とは違い,接触プレーがないとはいえ,
トレーニングしてなければ無理でしょうね.




FÈDÈRATION INTERNATIONALE DE FOOTBALL ASSOCIATION
のロゴが記載された黄色と赤のカードが,少し土に汚れたまま,
研究室の本棚に置いてあります.




2010年7月8日木曜日

思慮,イビチャ・オシム

  
この人が倒れたことで,(Jリーグは別として)日本代表のサッカーは少なくとも4,5年は後戻りしてしまいました.残念.でも,この方はいまだに日本が好きで,雑誌などのメディアには頻繁に登場してくれている.

この人の発言が,いつも思慮深く感じられるのはなぜでしょうか?
思慮深いからでしょうか?

公共広告機構の脳卒中のCM.
各所抜粋.


どうしたいのかを自分で考え,選ぶと言うことだ.
生きるのか,そうではないのか.
選択肢は二つだが,事実上,答えは一つだ.

治りたいのか?
もし治りたい,負けたくないのならば,
ゆっくりではあっても,前進することだ.
まず,生命が助かったことで,
そのあとの努力も可能になったということだ.
サッカーと共通の事柄があるとすれば,
努力を続けるには,
前進しているという実感を得ることが大切だ.
それによって,前進できる.
それによって,自分自身を引っ張っていける.
そういう感覚が毎日少しでも得られれば,
努力を毎日することができる.
良くなっているという実感,サインが,
前進するためのパワーであり,
道しるべになる.
モチベーションになる.
私の場合は,そうだった.




 

ほんとうに多くの日本人が
ストレスやプレッシャーにさらされている.
仕事でも生活でもリラックスできていない.
私の知っているだけでも,
サッカー選手のプレッシャーは言うまでもなく,
それを記事にする記者たちも,
それにみなさんメディア関係者も
みんなが,この仕事を失敗したら
明日はこないかのように,
追い込まれているようだ.

多少の挑戦に失敗しても明日の心配を
しなくとも良いように,リラックスできる社会にする.

人間は,勝つこと,成功することだけを
考えるべきではない.
まず,生きること.



 

それは,より自由に生きるということだ.
「他人よりも優れていなければ」
というのは不要なプレッシャーだ.

日本人の多くは,自分の意見を
公表することを恐れているようだ.
自分を表現することは非常に重要なこと.
何か意見があっても,
言ってもいいか考えた結果,言わない.
それは社会的なプレッシャーなのか,
日本の教育の問題なのか.
いずれにしろ,自分のアイデアを
活かすことができないのは非常に大きなストレスだ.

もし,まったくエゴイストとして生きるならば,
ストレスも減ることだろうが,
人生とはそういうものではないはずだ
自分だけでなく,他人も自由に生きることが
できなければならない.




 

何が大事か?
もし生まれてしまったからには,生きることだ.
生き残ることだ.
もっと良い人生を生きることだ.
一度生まれてしまったからには,
後戻りはできないだろう.

客観的にならなければならない.
できないことを期待すると,
期待される方もする方も,
大きなストレスを抱えることになる.
すると楽しいはずのサッカーが
ストレスから苦しみ,拷問になる.
世界王者へのストレスを感じる資格があるのは,
ブラジルやスペインだ.
日本がストレスを感じる必要はない.

日本代表は,美しく,かつ効果的なサッカーができる.
その力を十分にもっている.



2010年7月7日水曜日

ワールドカップ日本代表傍観記


ワールドカップ,日本代表の試合を,かなり退屈に,少し喜んで,やっぱり残念で,ちょっと悲しく見てました.

ワールドカップで優勝したチームのサッカーは,とても影響力をもつ.そのあと,いろんなチームが真似をするし,スタイルの流行を作る.もちろん,チャンピオンズカップで優勝するチームだってそうだし,日本の高校サッカーで言えば,高校選手権で優勝したチームのサッカーだってそう.だから,おもしろいサッカーをするところが,優勝してほしいと願ってる.

監督だった岡田さんは,ベスト4と言うばかりで,やりたいサッカーがわからんかった.「ベスト4」って目標だけでは,どんなサッカーをするかというビジョンは全く見えない.八百長してでもベスト4に行きたいかって聞かれたら,そうじゃないと答えるはず.サッカーにプライドを持っている人たちが,「サッカーをして」勝ちたいはずで,じゃぁ,次の問いは,「どういう」サッカーをして勝ちたいかって事だったと思う.科学の世界で,ただただNatureやScienceに掲載されたいっていうのでが,幼稚な目標だっていうのと同じだと思う.オシムさんの時は,どんなサッカーをするのか言葉で表現してくれて,そして試合でもそれを表現してくてたから,とても楽しかった(やっているサッカーが良いサッカーだと個人的に思ってたことも楽しかった要因ではある).

で,結局,ワールドカップでの舞台で日本代表が表現したのは,忍耐を強いるサッカーだった.攻撃では自分たちの特徴であるパスワークを封じて,個人技頼みにしてしまったから.本田と大久保と松井の3人の誰かが個人で何とかやってくれっていう,それだけだった.3人の連携で崩すってわけですらなかった.完全に個人頼みで,無茶な頼みを頼まれたのが3人.

攻撃にチームとして意図がなくて,運頼みだったから,ゴールが入る予感や試合展開みたいのがほとんど感じられなくて,とても退屈だった.試合を見ていて,寸分先も予想できない展開てのはつまらないモンだなぁと.次の朝のニュース速報で結果だけ見ればいいような試合でした(試合内容を見ないとそれは分からないのですけど).

象徴的だったのは,パラグアイ戦,川島からフィード(攻撃陣にボールを供給すること,必ずしもパスではない,と定義する)が,1-2回をのぞいて,全てパントキックなどロングフィードだったこと.ロングキックをして,それを拾うなんてのは,ほとんど運頼み.

悲しかったのは,このサッカーの延長に,前にやってた日本の特徴的なサッカーがないような気がしたから.こんなサッカーが日本でもてはやされて,流行るようになったら最悪だなぁと思ったから.正直,オシムさんが倒れてからというもの,超保守でナイーブな岡田さんの代表試合はおもしろくなくて,今回のワールドカップはそのトドメだった.

残念に思ったのは,ワールドカップの舞台で,日本のパスサッカーがどれだけ通じるのかを見られなかったこと.デンマークでやったように,カメルーンやパラグアイ相手だったら,恐れずにパスを回して攻撃を作るという挑戦をしても良かったんじゃないかなと思った.強い相手とやった時だって,例えば,年明けにオランダとやった親善試合では,前半45分は何回もおもしろいパス交換からの攻撃が見られてた.それで大敗したって,それが世界との距離なのだから,よかったんではないかなぁ.

どんなサッカーをしたいか,それをどうしたらピッチで表現できるかってのが,サッカーに関わっている人の解くべき問題.ぎりぎりサッカーと呼んでもらえるアンチサッカーをして,勝ってもホントは何の意味もない.幸か不幸か,サッカーが唯一の希望というわけではない日本なら失敗しても致命的ではないし,それでいてサッカー選手をとりまく環境が悪くない日本では,経済的にも文化的にも挑戦できる余裕を持っている国だとおもうのだけど.アフリカ諸国や南米の中堅国よりはずっと勝つことのプレッシャーはなかったはずなんだけど,日本の文化である自分で首を絞める慣習にならってしまった.

閑話休息:
パラグアイやウルグアイが守備的なのは,大陸予選でサッカー大国ブラジルやアルゼンチンと戦わなければいけないからというのを言う人がいて,妙に納得した.南米には今回は出ていないけどコロンビアやエクアドルなどのそこそこ強い中堅国もいる.一方で北中米・カリブ海に属するメキシコ(17位,2010年5月)は,パラグアイ(31位,2010年5月)やウルグアイ(16位,2010年5月)と同じくらいの実力だと思うんだけど,大陸予選で強い相手はアメリカくらいで,しかも出場枠が3枠もあるんで,彼らの好きなパスサッカーをして勝ち上がれる.いつだったか,残り10分で負けているのに,ひたすらパスを回して,パワープレイに全く走らない.センタリングすらあげない.パスとドリブルで中央から崩そうとしていて,さすがにアホかな,と思っていたのだけど,徹底したパス回しで終了間際にゴールッ!とりはだがたった.僕のメキシコサッカーのイメージは,この印象が決定的になっている.

日本にも,あの時のメキシコのような試合をしてほしかったわけです.ただ,勝つためだけのサッカーをせざるを得ない要因があったのもわかる.日本には実力がなかったり,直前の親善試合でうまくいかなかったり,実利主義的な日本だとやっぱり勝ちを求める記者やサッカー関係者が多くいたこと,など,など.

あと,あの我慢強いサッカーをとても高いレベルでやったってのは,すごいことでした.11人全員が精度良く守備のバランスを考えて,それを忍耐だけで実行するようなサッカーを90分(パラグアイ戦では120分も),よくやれるなという感じでした.もともとはパスサッカーをしていた選手達が,割り切ってあの戦術を徹底したことは本当にすごかった.選手達のメンタリティはすごいなぁと.少なくともアフリカやヨーロッパの国では,あれはできない.

で,ベスト16に進んでみたら,その反響はすさまじく大きい.僕もデンマーク戦はうれしかったし(特に本田が翻弄して,岡崎が決めたゴールは!).何人かの選手は,ステップアップ(海外移籍)の機会を得られようとしています.グループ予選で敗退してたらこれはなかったから,勝てば次の可能性が大きく広がるんですよね(だからといって,勝つことを目標にするなんて全く思いませんが,僕は).

そして,日本代表の試合が終わってしばらくたった今では,さっきは「この延長に日本のサッカーはない」と書いたけど,もしかしたら,これを土台に日本の特徴的なサッカーができるのかもしれないと思いはじめてたりもする.最後の最後,中村憲剛を中心に攻撃的なドリブルとパスワークとを見せてくれたのが,希望でした.

てことで,次あたりは西野さんあたりが監督にならんかなぁ.

30人程度の小さな組織について,構成員として.


組織がうまくいかない時,
それを誰かの責任として語るのは賢いことじゃない.

組織の中にいる人がその組織を批判するのは,
第3者が批判するのとは影響がちがう.

なにか問題意識を持っているのなら,
その問題意識を,顔を向き合わせた公の場で,表明して,
共感してもらって,
自分がそれに対して何をできるのかを提案すべき.
他の人も何ができるのかを表明してあげる.
他人に何をしてほしいとかではなくてね.

(上の人は,公の場で問題意識を表明する人がいたら,
些細なことでもシリアスに受け止めるべきかな.)

それでもって,みんなが持ち寄って出てきたモノが
その組織の限界だから,それ以上は諦めること.
ただ一方で,持ち出したものを組み合わせれば,
大抵のことは何とかなるんじゃないのかなぁと思う.

ちなみに,できないことをできるようにするのは,
個人で勝手にする努力だから,他人が介入しちゃ駄目だと思う.
仕事の場で,できそこないを上の人がクビにしないのだったら,
それは尊重すべきで,誰かがとやかく言う問題じゃない.

(どんなに優秀な人員が集まっている組織にも,
その組織の中で最低能力の人間が1人はいて,
それを気にして追いやったとしても,
次に低い能力の人間が気になるだけではないかと思う.)

##

どんな良いシステムだって,構成する要素に不具合があれば,
うまくいかなくて,
要素の問題てのは小さな不具合だったりすると思う.
小さな不満を小さい内に解消する術を持っておくべき.

そういう点で,
組織とは独立に個人が対処できることは,
日常的にいろんなところで関係性を気づいておくこと.
所属している場所にしか友達がいないなんて場合,
所属している組織の不満がたまると,そのことばかり考えてしまい,
妄想が妄想を呼び,
あらぬ不満まで考えてしまう人もいるんじゃないかなと.

日常的に,自分の所属とは関係ない友人や家族がいれば,
不満なんて忘れてしまうし,
忘れてしまう程度の不満だったら忘れてしまった方が良い.

研究室を所属にしている学生なんかは特にそう.
一時的には24時間研究室にいる人もざらにいるだろうし,
数ヶ月間,家と研究室の往復だけなんて事もありえて,
いつのまにか研究室依存症になってる.
博士課程まで来ると,学部時代の友達なんかもほとんどいないから,
ちゃんと他での関係を見つけておかないと精神的にしんどい.
多くの小中高生みたいな状態ですな(←所属している組織が,家族と学校).

その組織に依存症なくせに,不満を持つのでたちが悪い.
さすがに知恵のついた大人なんだから,自分で何とかしましょう.

今,自分の身に,他人が笑ってくれないコトが降りかかっていたら,
少なくとも自分が笑えるまでは待ってから,言うようにしたらいい.
もしくは,スゴイ早い段階,深刻になる前の笑えるうちに誰かに言ってしまうのも手.

自ギャクにしても他ギャクにしても,
自分も含めて誰1人笑えないようなら,言わないのが賢明.
言うならヘラヘラ笑って言えばいい(それで軽薄に思われても気にしちゃいけない)

と常々思っている.了.

2010年4月22日木曜日

感動的なおつかい!

小惑星探査機「はやぶさ」搭載カプセルの地球帰還について
おぉ,帰ってくるめどがたってる!
行って,取って,帰ってくる.スゴイなぁ.

「はやぶさ」がわからない方はこちら↓

もすこしまじめに何やってるかはコチラ↓
宇宙版プロジェクトX 小惑星探査機はやぶさ#1(youtube)

はやぶさ、地球へ〜帰還カウントダウン〜特設サイト

2010年4月14日水曜日

お引っ越し

この4月から所属を移りました。同じ大学内ですが、異なる研究科へ。仕事場の引越しがあるわけですが、学内なんで旧居室から新居室まで道のりにすると3、400メートルほどでしょうか。宅配便というわけにもいかず、台車に段ボールの荷物を乗っけて右往左往。めんどうだった。。途中、学内といえど、信号のある交差点も渡らなければいけなかったし。。この距離の引越しは、業者に頼みづらく自分でやらなければいけないことが多くて、一番大変なんじゃなかろうか。もちろん一人じゃできなくて、手伝ってもらった。段ボールの荷物を運んでくれる学内便とかあったのかしらん。まぁ、無いな(と調べもしないで決めつけましたが)。

などなど、今年に入ってからは公私ともにいろいろと大事があり、あっという間でした。それでも今のところ、新しい環境だったり5月にもイベントがあったりで、緊張が続いているのか、それほど疲れた感じはしていません。これで、気の緩む一週間かがあると風邪をひいたり熱を出して2、3日寝込むのが自分のパターン。意識はしないのですが、意外と日常的な緊張が高いので注意しなくては。6月初旬くらいが注意だろうか。

環境を移るのは、それだけで目新しい仕事の進め方とか経験できるし、研究室の運営なんかもいろいろと違うという事が発見できるので、楽しい。しばらく気は抜けませんなw

工学の研究室 → 情報学の研究室 → 医学の研究室(工学寄り)と移ってきて、今度は情報学(心理学寄り)の研究室です。日本だけでも色々だなぁというのが自分の印象。

2010年2月7日日曜日

【論文】(ボクセルパターンの)再現性が自覚的な知覚のある場合とない場合をわける.


(※多分に読み間違え,考え違いしている可能性アリ.とりあえずバカをさらしてみる.)
 
Reproducibility Distinguishes Conscious from Nonconscious Neural Representations Aaron Schurger, Francisco Pereira, Anne Treisman, Jonathan D. Cohen Science 1 January 2010:Vol. 327. no. 5961, pp. 97 - 99

Conscious(この論文では自覚的な知覚)とNonconscious(この論文では視覚入力があるの自覚的には知覚されない場合)を,脳活動パターン(fMRI計測におけるボクセルパターン(空間的パターン))によって区別できる,BOLD信号の大きさではなく,という論文.Science誌


Fig. 2 A,B
ボクセルパターンのばらつき(the variability of the vector angle)を評価するために,各試行のボクセルパターンをv_iとした時に2つのボクセルパターンをとってきて,1/norm(v_j+v_k)を評価指標にしている.2つのベクトルの和の逆数で,(すべてのnorm(v_i)が等しいとして(←この仮定が正しそうなことをFig2,CDで主張している))この値が小さければバラツキが小さい(Fig.2 A,B).Fig.2 C,Dで,BOLD信号の大きさ(L2ノルムを算出)自体は差がない(もちろんそれは言えないけど,察してねというグラフ).ボクセルパターンで,Consciousnessをわけられる(もっと言えば,Consciousnessを分けるのはボクセルパターンだと言いたいのだと思う).

Fig2. ABで使われた評価指標は,相関係数だとダメ?相関係数ならば,余弦をとっていることになるのだからもっと直接的だと思うのだけど.BOLD信号の大きさが等しいなら,論文で用いられた評価指標でも良いと思うのだけれど,不自然な感じが気になる.それぞれのベクトルの大きさが等しいとして,この評価指標と相関係数で何が違うのか後で計算してみるかも,メモ.

Fig 2.で値が0.74とかって,2次元ベクトルだとしても直交している!?相関をとるとマイナスになるような値のような気がする!?経験的にfMRIのデータなら,というか多次元データならそうだろうと思うけど...見せ方の問題でこうしたのか!?あれ!?よくわからない...素朴な解析なのに,考え違いしているのかな..あれ...

とりあえずここで終了.現実逃避終了w.
 

2010年1月1日金曜日

あけましておめでとう

あけましておめでとうございます.

2010年です.Twenty Ten

2000年に賞味期間10年をうたい文句に缶詰めされたCUP NOODLEが販売されたのを,いまだに開けないでとってある.今年が賞味期間の最後の年.ついに開ける年.

昨年,親が遊びに来た時に,僕がいない間に勝手に1つを開けて食べられてしまった時は,どんだけがっかりしたか...帰ってきた時には,開いた缶と容器しか残っていなかった.無惨,無残.

勝負事以外ではあまり感情的にならない僕も,この時は思わずブーたれた.あまりにブーたれているから,「子供か!?」と言われ,「子供だ!!」と.本気で言い返していることに,自分でもびっくりしたくらい...

でも,まだ2つある.いつ開けるかな♪

と思いきや,これ,一部で不備があったらしく自主回収しているのですよね.うーん.当たるも八卦当たらぬも八卦,今年の運試しか.

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十年一昔.これは僕の感覚にもよくあっている.これから次の10年が始まる感じです.あと1ヶ月ちょっとで20代も終わり.年始に抱負は立てない質(たち)ですが,今年は強く思うところもあります.

ではでは,今年もよろしくお願いします.