2009年10月27日火曜日

科学をすることが許される理由と科学をする理由,

科学は誰のための物か?

科学をする当事者以外だと,その国で行われている科学は,第1にはその国に住む人達のためです.その人達が楽しんだり,その発展としての技術的恩恵を受けられないなら,科学者が科学を行っていい正当性なんてどこにもない,と思っている.

じゃ,科学を行っていい理由は何かっていうと,もう書いちゃっているけど,2つ.その研究が自然を理解する点での重要か,もしくは,技術的な発展を介した恩恵を人々に与えられるか,という2点だと思う.前者は,自然を理解できれば技術的発展も容易になるし,多くのヒトが大なり小なり持っている自然を理解したいという欲求に対する満足を与えてくれるということ.後者は,それによって生活が豊かになるということ.日本で,科学を行う正当性を主張したときに,たいていの人に理解してもらえる理由はこの2つだと思ってます.

そして,この2つはそのまま,科学者が研究を行う動機の種類だといってもいい.

余談ですけど,患者と接していない工学者がおこなう医療応用を目指した研究って軽薄なのが多い.研究者の動機づけは全然応用じゃないのに,応用を目指した風を装っている.大抵中途半端...BMI(Brain Machine Interface)研究の一部とか...研究者の動機に寄り添っていない仕事って軽薄に感じる.逆に,治したい患者が目の前にいる医者が行っている応用研究ってとても迫力があります.方法はたいてい愚直で,科学的な問題としても面白くない研究が多いけど,それは重要な研究だと思えるし,それをしている研究者は尊敬できる.科学者としての能力は問うところではないでしょうね.行動が意味をなす研究もあると思ってます.本当は技術者と呼ばれるべき人達.


動機の話に戻りますけど,

僕の場合は,研究をする動機づけは,技術的な応用はなく,自然を理解したいという点のみです.科学的な動機の中でも特に,得られる知識の重要性よりも,問題の性質として面白いかどうかが大事.ヒトの脳という限定された対象を研究していますが,そこに問題の性質としての一般性がなければ,たぶんあまり楽しめないような気がしている.なので,実は興味だけで考えるなら対象としては「ヒトの脳」でなくてもいい.ヒトの脳,特に視覚が研究対象ですが,これまでの知見が膨大にあって実験を統制する技術も知られているので,方法論の点を考えて研究対象を選択をしているだけ.
 
一方で,ヒトという興味の対象は譲れなくて,ヒトの脳のミクロなところにいって,細胞とか分子とか,僕がヒトを感じられなくなってしまう研究は続けられないんだと思う.なんでヒトに興味を持っているかは,自分でもよく分からない.

あー,でも,もっと深く考えると,知りたいってコトが純粋な動機じゃないかもしれない.議論好き,ってところに研究をする動機があるかもしれない.長くなったので,その話しは別の機会に.

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